2.富士山のおいたち・歴史時代の噴火史

富士山がいまの姿になるまで

富士山はいまからおよそ10万年前に誕生したと考えられています。日本の火山の多くが数十万年から100万年にもおよぶ歴史を持っているのに比べると、まだ若く、元気いっぱいの火山と言えます。
富士山は、大きさの点でも形の美しさの点でも、日本を代表する火山です。この富士山は、どのようにして生まれ、いま見られるような姿になったのでしょうか。

およそ20~10万年前、現在の富士山のやや北側に、小御岳(こみたけ)火山が誕生しました。周辺の愛鷹山(あしたかやま)や箱根山などの火山も噴火し、大量の噴出物が地表に積もりました。

10万年ほど前に、小御岳火山の中腹で新しい火山(古富士火山)が噴煙を上げはじめました。富士山の誕生です。古富士火山は噴火をくりかえしながら成長し、小御岳の大部分と愛鷹山の北半分を埋めつくし、さらに高くそびえる火山に成長していきました。

古富士火山は、数百回におよぶ噴火と数度の山体崩壊をへて、およそ1万年前から現在の富士火山(新富士火山)が成長を始めました。その後も山体崩壊が起きたことがありますが、度重なる噴火が崩壊の傷跡をおおい、美しい円錐形をした現在の富士山がつくられました。

噴火をくり返す富士山

有史以来、富士山は活発な噴火をくり返してきました。山麓に残された火山灰や溶岩流などの堆積物、いにしえの人たちが残した文書や絵図から、その事実をうかがい知ることができます。
8世紀以降、富士山の噴火は少なくとも10回記録されています。なかでも平安時代に起きた貞観噴火(864年)と、江戸時代の宝永噴火(1707年)は規模が大きく、具体的な記録も豊富です。

「日本記略」に記された延暦の噴火

富士山の火山現象に関するもっとも古い文字記録は、8世紀後半までに編纂されたと考えられる歌集『万葉集』です。この中に富士山の火山現象を詠んだと思われる歌がいくつか収められています。しかし、発生年がはっきりしている具体的な噴火についての記述が初めて現れるのは、朝廷によって編纂(へんさん)された『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天応元年(781年)の条です。ここに、富士山が噴火して灰が降ったという記録があります。
その19年後、平安時代初期の西暦800年(延暦19年)に発生した延暦噴火については、噴火による被害の状況など、もう少し詳しい記述が『日本紀略(にほんきりゃく)』の中に残されています。
それによれば、噴火は4月11日から5月15日までほぼ1ヶ月間続き、噴煙のため昼でも夜のように暗くなり、火山灰が雨のように降ったということです。また、同じく『日本紀略』には、このときの噴火で「足柄路」がふさがってしまったため、箱根路を新たに開いたという記述も出てきます。
足柄路は古代東海道の一部で、駿河国から足柄峠を越えて相模国へ至った路と考えられています。

万葉歌人が見た富士の噴火

いにしえの人たちにとって、富士山の火山現象はどう映っていたのでしょうか。『万葉集』には富士山を詠んだ歌が11首収められていますが、その中には富士山から火柱や噴煙が上がっている光景を思わせる歌もあります。
有名なのは高橋虫麻呂の作とされる長歌「不尽山(ふじさん)を詠ふ歌」です。

「・・・不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり
飛ぶ鳥も 飛びものぼらず もゆる火を 雪もち消ち
降る雪を 火もち消ちつつ・・・」
とあります。
ほかにも、富士山の火山現象を詠んだと思われる歌があります。

「吾妹子(わぎもこ)に 逢ふ縁(よし)を無み
駿河なる 不尽の高嶺の 燃えつつかあらむ」
「妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ
布士(ふじ)の高嶺の 燃えつつ渡れ」

いずれも火山現象に
恋人への激しい思いをたとえた、
恋の歌です。

信仰の山からレジャーの山へ -富士登山の歴史-

 富士山には、聖徳太子が空飛ぶ馬に乗って登頂したという伝説や、伊豆大島に流された役小角(えんのおづぬ、?~701年)が、夜な夜な海の上を歩いて富士山に登ったなどという伝説もありますが、上代の富士登山がどのようなものであったかを示す記録は残っていません。平安朝廷の役人であった都良香(みやこのよしか、?~879年)がまとめた『富士山記』には、富士山の山頂火口の詳しい情景描写があります。このことから、平安時代前期には誰かが実際に山頂まで登っていたことがわかります。その後、平安時代に富士山頂に寺が建てられたという記録もあり、実際に富士山頂で鎌倉時代の経文が発掘されたこともあります。
 しかし、富士登山が隆盛を極めるのは、江戸時代に富士講と呼ばれる信仰登山が庶民の間に広まってからです。富士講は人々が登山資金を積み立て、輪番制で富士山に登るというもので、江戸には八百八講と呼ばれるほどたくさんの富士講がありました。当時、江戸から出発する場合は1週間の行程だったそうです。
 昭和39年(1964年)に富士スバルラインが開通、昭和45年(1970年)には富士山スカイラインが開通して、それ以降、富士山の観光地化が急速に進みました。